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画紋工房

2008年12月にガタケット103(3月22日)に向けてなんとなく結成された二人組サークル『画紋工房(がもんこうぼう)』のブログです。コピー本を作ってガタケットにちょびちょび参加しております。(2018/03/20~申し訳ありませんが暫定活動休止中です。たまに更新する、かも……)

小説①ディース様はお年頃。

「ふわーあ……」
 切れ長の目の端に涙を溜めて、大きく開いた口から牙を覗かせて大きく伸びをする。
 紫色の長髪が裸の背中を流れていった。布地の少ない下着に覆われた体のラインは流麗で美しく、脂の乗りきった色香を妖しいまでに漂わせている。
「……朝かあ」
 窓から差し込む昼に差し掛かった日差しに、涙で潤んだ縦長の瞳孔を収縮させて、ディースは呟いた。シーツの下にある尻尾の先をぴこぴこと動く。
「今日は何しようかな~」
 鼻歌混じりに腰から下を覆っていたシーツを剥ぐと、腰から下の蛇体が現れた。惰眠を貪った機嫌の良さを表わすように、尻尾の先がぴこぴこと動き続けている。
「あらやだ。はしたない」
 腰から垂れていた布がまくれ上がっているのを見て、ディースは慌ててそれを正した。腰の部分から前後に薄布が垂らされているのだが、ブラジャーと同じ色で透けるような薄さの同じ布地を使っているところを見ると、上下お揃いの下着らしい。
 他の種族からすると、どういう風にはしたないのかは全く分からないが。
 少なくとも、布地が少なく、しかも透けているブラジャーは十分はしたない格好だが、本人には違うらしい。
 ベッドサイドテーブルから櫛を取り出してゆっくりと梳く。流れるような髪はほとんど引っかかる事もなく櫛を通し、ディースの長髪の艶めかしさに更に磨きを掛ける。
 髪を梳くのが終わり、ディースは櫛を見た。瞳孔が収縮して緊張した顔から表情が消える。
 櫛には、幾本かの髪の毛が引っかかっていた。それを敵のように一本ずつ櫛から抜き、ゴミ箱に入れていく。
 最後の髪の毛をゴミ箱に入れると、ディースの顔が微笑んだ。
「……ま、こんなもんでしょ!」
 自分に言い聞かせるような声と納得させようとする微笑みに気付く前に、ディースは櫛を戻し、香油を手に取った。
 日にさらされやすい部分に、流麗な指先で塗り込んでいく。高かった値段相応の艶やかな香りと肌への浸透感にディースの顔がにんまりと微笑む。
 牙を覗かせた妖艶な笑みには、隠しきれない捕食獣の残虐さがにじみ出ている。
 機嫌良く肌に香油を塗り込み終わると、今度は蛇体へ香油を塗り込んでいく。
 蛇体へ香油を塗り込んでいくディースの顔は真剣そのもので、鬼気すら感じさせた。
 香油を塗り込まれて妖しい輝きを発する鱗に、ディースはまたにんまりと笑った。姿勢を変え、人間で言うと尻のあたる部分の鱗へと香油を塗り込む。
「……あら……?」
 かすかな疼痛に、ディースは顔をしかめた。櫛を通したときに、少しの抵抗で髪の毛が抜けたときのような、するり、とした感覚のある疼痛。
 ディースは不思議に思って腰に当たる部分を捻って背後を見た。
 ベッドのシーツの上に、木の葉のようなサイズの緑色の鱗がぽつねんと落ちている。
 ディースの部屋の窓ガラスをぶち破って、香油の瓶が外へと飛び出した。



 世界を救う為の勇者たちの共同体。共同体には勇者たちが全員で住んでいる寮が中心にあり、そして町としての機能が備わっている。
 そのリーダーである少年、リュウは気分良く釣りからの帰路に着いていた。
 首の後ろでくくった青い髪の毛と一緒に、腰の一杯になった魚籠も揺れる。すがすがしい微笑みからはちらちらと牙が覗いた。腰には魚籠に入らずに吊してある大きな魚もある。
 魚との戦いでかいた汗が、小柄ながらもたくましい体をきらきらと光らせていた。
 釣りはいい。
 リュウは考えていた。
 魚との戦いは、何もかも忘れさせてくれる……。
 遠い目で腰に吊ってある大きな魚との戦いに思いを馳せる。糸を切らないように引き、また戻し、粘りに粘って釣り上げた大きな収穫だ。
 食料としての収穫以上に、心の収穫、勝利という歓喜の収穫でもある。
 共同体近くの丘が迫ってきた。リュウの足取りが、段々遅くなる。
 リーダー。響きのいい言葉だ。響きだけはいい言葉だ。
 リュウは重い足取りのまま、ゆっくりとかぶりを振った。
『ねえリーダー、ガラス割っちゃった』『ねえリーダー、お魚食べたい』『ねえリーダー、トイレ汚しちゃった』
 美少年でも通りそうな中性的なかわいらしさを持つ、猫科種族の少女のあどけない顔がいくつも浮かび上がった。リーダーとしての耐えかねる責務の重さにまざまざと浮かんだ連想だったが、何故か浮かんだのはその少女の振る舞いだけだった。
 他に何かあるだろ……、とリュウは思い出そうとして止めた。見つからなかったら、悲しい。
 リンプーに悪気はないんだよな……。
 頭に浮かんだ脳天気に笑っているショートカットの少女を、あえて庇護してみる。虎人という絶滅寸前と言われている希少種族なのだが、本人にその自覚は全くない。
 再びリュウはリンプーの『ねえリーダー』で始まる一連の振る舞いを思い出してみた。『ねえリーダー、ガラス割っちゃった』
『……しょうがないなあ。ケガしてないか? 今度から気を付けるんだぞ』
『はあい』
 大工道具の収まったベルトを腰に付けるリュウをよそに、にっこり答えると歩き去るリンプー。
『ねえリーダー、お魚食べたい』
『今度釣りに行くときまで待ってね』
『えー。やだー』頬を膨らませてリンプーは抗議の視線を送ってくる。
『んー、じゃあ明日行ってくるよ』
『……今日。晩ご飯のあとでもいいから。絶対』
 圧力を増したリンプーの視線に、リュウは夕日が沈み、暗くなっていく空を呆然と見上げた。
『ねえリーダー、トイレ汚しちゃった』
『……ええっ!?』
 あっけらかんと言うリンプーに、リュウは驚きの声を上げた。リンプーがきょとんと見つめ返してくる。
『……トイレって、女子トイレだろ……』
 呆然と呟くリュウに、リンプーはこっくりと頷いた。不思議そうな眼で見返してくるリンプーに、リュウは自分が落ち着くように咳払いした後、言った。
『えー、あー、自分で汚したら、自分で掃除しようね』
『んー』
 リンプーが腕を組んでうつむき、難しい顔で考え込む。
『リュウちゃんお手本見せて』
『……ええー』
 男が女子トイレにいるのは倫理上あまり良くない、という言外に伝えたかった事を失敗して、リュウはがっくりと肩を落とした。とぼとぼと女子トイレに向かう。
『だ、誰か使っていませんかー!』
 なるべくトイレの入り口から離れて大声を出す。返事はなく、傍らのリンプーがいぶかしげにリュウを見た。
『使ってたら駄目なの?』
 リンプーの問いに答える気力もなく、奥の掃除用具入れに向かう。バケツに水を入れ、ブラシを手に取る。
 汚れの原因が何か、誰のものかという事を心から消してリュウは便器に向かう。思ったよりもひどくない汚れにほっとする。
『水で濡らしてブラシで擦るだけだから』
 傍らのリンプーに言うと、不思議そうな表情で頷いた。リュウの脳裏に一抹の不安がよぎる。
 使われずに放置される清掃用具が悲しくたたずみ、汚れが乾いて取れなった便器。
『……んーと、掃除しているから、誰か入ってこないように見ててくれる?』
『いーよー』
 リンプーはリュウに不安を与える明るい答え方で、トイレの出入り口に立った。
 出入り口から動かないのをしばらく確認してから、リュウは掃除に取りかかった。
 が、なかなか汚れが落ちない。早く女子トイレから離脱したいがために、リュウは掃除に熱中しすぎた。
 小さな足音が耳に響いたと思うと、隣の個室のドアが閉まる音が続いた。
 体が硬直し、動悸が強まり、耳が外界の静寂をうるさく感じるほどにあらゆる音を拾おうとする。
 かすかな衣擦れの音。
『……ん』
 かすかに羞恥を含んだような声に、小さなほとばしりの音が続く。
 リュウは混乱した頭でただ1つだけの事を願った。
 お願いだからトイレが終わったら俺に気付かず出ていって下さい。
 他の種族よりも軽い足音には特徴があり、聞き慣れていた。
 ほとばしりの音が小さくなる。相手の事を考えると、相手が今無防備で他人には見せる事の無いであろう状態にあるかと思うと、リュウの体が熱くなった。
『あっ』
 小さな声が発せられて、リュウの心臓だけが跳ね上がった。体は相変わらず硬直して動かない。
『すみません、そちらにちり紙はありませんか?』
 たおやかな声に、リュウは生唾を飲み込んだ。心の中でリンプーに全ての責任を転嫁してみるが、全く役に立たない。
 どうしてこっちの個室に人がいると分かるのか? リュウがぎこちなく首を回してみる。内側に開くタイプのドアが掃除に邪魔で半開きにしておいたはずが、ゆっくり閉まったらしい。
『あの、すみません……ちり紙はありませんでしょうか?』
 無視しろ、と生き残る為の野性が囁いたが、懇願の響きを帯びたたおやかな声に、理性はあっさりと折れた。
 ちり紙を掴むと、指が出ないように仕切り壁の上に出す。
『ありがとうございます。すみません、お手数をお掛けしてしまって』
 声に歓喜の響きが混じり、理性は満足したが野性は不機嫌に押し黙った。
 ちり紙が使われる音を、リュウは理性も野性もなく聞いた。丁寧な音だった。
 またかすかな衣擦れの音がすると、隣の個室のドアが開いた。
 リュウは完璧に硬直し、無になろうとした。これで出ていってくれれば、それでいい。 しかしそうはならなかった。
『あの、ちり紙、ありがとうございました』
 リュウの個室のドアの前で足音が止まり、優しげな声が謝辞を述べた。
 無にはなれないという事に気付き、リュウは事態が過ぎ去るのを硬直して待つ。
『……あの?』
 一回だけドアがノックされ、そしてその一回で十分だった。
 鍵のかかっていないドアがゆっくりと開き、ぎこちなく首を巡らせたリュウと、切れ長で優しい光をたたえた視線がぶつかる。
 一旦、優しげな眼は不可思議な光を見せてから事態を把握した。
 上品だが高慢さは全くない、希有なかわいらしさを持つ少女は、かあっと耳まで赤くなると、うつむいて肩を震わせる。
『これは、その……』
 リュウはブラシを持った手を挙げて説明しようとしたが、もう少女は背中に生えた羽を打ち振るって加速を付け、ダッシュで逃げていった。
『……あ、ああー!』
 リュウはブラシを投げ捨ててしゃがみ込み、頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
 地獄からの呼び声に似た叫びに、リンプーがトイレ出入り口の陰からぎょっとした顔を覗かせた。
『あっ、あぁ! あぁあー!』
 リュウは混乱と興奮と絶望で糾弾したい相手の名前すら出てこない。
 しかしリンプーは死者の叫び声のようなものの意味を聞き取ったらしい。
『リンプー、ちゃんとリュウちゃんの個室に誰も行かないように見てたよ』
 無表情でそれだけ言うとだっと駆け出す。
『あぁあー!』
 女子トイレに絶望に彩られた地獄の悲鳴が轟いた。



 気がついたとき、リュウは丘の中腹で頭を抱えてしゃがみ込んでいた。
 ……帰りたくないなあ……。
 はあー、と内蔵に疾患を抱えているようなため息がはき出される。
 全て捨てて逃げてしまいたい気分だが、リーダーとしてはそうもいかない。女子トイレの件も完璧に釈明出来ているとは思えない。みんなリンプーならやりかねない、という点では納得してくれると思うが。
 女子トイレで盗み聞きしていたのがばれて逃げていったリーダー。
 情けなさ過ぎる。しかも盗み聞きしてしまったのは悲しい事に事実だ。
 えへへ、と自虐的な笑みを浮かべて立ち上がると、丁度丘の上に翼を広げた人影が降り立った。
 リュウを見つけて、優しげな顔を拗ねたように伏せる。切れ長の眼がリュウを上目遣いに伺った。
「……たあう」
 しばし黙考の後、ただいま、と言おうとしたのだが出たのはその言葉だけだった。
 リュウは自分の情けなさに泣きたくなった。
 あれから避けられてしまい、リュウが飛翼族のお姫様に話しかけるのは久しぶりだった。何日間か避けられていただけだったが、楽しげに歓談していたのがずっと前の事に思える。
「……お帰りなさい」
 つとめて平静を装った声が、丘の上から降ってきた。ちらりと目線を上げてリュウを見た後、ほんのりと赤く染まった頬を隠すように顔が伏せられた。長い金髪が昼過ぎの陽光にきらめいて栄え、美しい。スリットの深いタイトなドレスに包まれた胸の下で、もじもじと組んだ手指が動かされる。それに合わせて、背中の漆黒の羽根も収まりが悪そうに動いている。恥じらうニーナはなんだかいつもに増してかわいかった。
「……た、たただいま」
 どうにか怪しいながらも言葉になったので、リュウは少し満足した。
 ここ何日かお互いに口がきけなかった状況を考えると、格段の進歩と言える。
 背景にはリンプーとディースの存在があった。
 リュウが心の整理を付ける為に掃除を終え、謝罪と説明にニーナの部屋に向かうと、先客がいた。
『ねえニーナ、おしっこの音聞かれたってどうって事ないよう。誰も気にしないってば』 リンプーが人目もはばからずドアの前で喋っている。聞こえていないと思っているのかかなりの大声だ。眉根を寄せて少し考えた後、少しだけ声のトーンを落として言う。
『……う……じゃない、おっきい方だったの?』
『ばかーっ!』
 ドアに何か柔らかいものが投げつけられて、ドアが揺れた。
 愕然と事態を見守っていたリュウに、リンプーが気付いた。
『あっリュウちゃん。ニーナ怒っちゃったんだけど、どんなだったの?』
 リュウは戦慄した。リンプーはリュウの表情にきょとんとしている。
『ばかーっ! ばかばかばかばかーっ! あっち行けーっ!』
 鼻にかかった叫び声と一緒に、ドアへと立て続けに柔らかいものが投げつけられて小刻みに揺れる。
『ひょえー』
 リンプーは楽しそうに頭を抱えて逃げ出した。
 リュウはリンプーを追う気にもなれず、ニーナの部屋に行く事も出来ず、しばし立ちつくした後、その場を立ち去った。
 次の日ニーナは部屋から出ず、食事だけがリンプーによって部屋の前に運ばれた。
 決められたセリフ以外喋るな、と眼を殺意に血走らせたリュウに念を押されているので、リンプーは食事を置いた旨を伝えるだけだ。冷めても十分食べられる食事をニーナ用に作ったのだが、どうにか食べてくれているようでリュウは安心した。
 更に次の日、ニーナは朝食を食べに食堂に現れた。リュウが話しかけようと近づく。
 蛇体が追い越し様にリュウの進路を阻み、先にニーナの元に到達した。
『聞いたわよ~。お姫様~』
 ねっとりと絡みつくような淫靡な声音でディースが言った。
『な、なんの事ですか?』
 顔をディースから反らして言うが、その声は上擦っていた。
『え~? ここで聞いていいの? みんなの前で?』
 ディースは蛇体で上半身を持ち上げて、反らしたニーナの顔の前に自分の顔を持っていく。吐息を耳元に吐きかけるように言う。
『ニーナちゃんそういうの好きなの? お姉さんに言ってご覧なさい?』
『すっ好きじゃないです!』
 吐息に耳元をくすぐられて、思わず声を上げそうになったニーナが身をよじって叫ぶ。頬が紅潮し、それを隠すようにうつむく。
『えっ? 何が好きじゃないの? ニーナちゃん? ちゃんとここで言ってみて』
 ニーナは逃げようとしたが、体の周りでディースの蛇体がくねっていた。左右を見渡しても蛇体に阻まれて逃げ道がない。
『いいのよ若いんだから~。欲望に身を任せても~』
『なっなんの事ですかっ!?』
 耳元に吐息と共に紡がれる言葉から逃げる術はなく、ニーナはただうつむいてじっと耐えていた。耳から脊髄を撫で上げるような吐息に抵抗するために、声が大きくなっていた。
『昨日の夜、凄かったじゃないの~。リュウちゃんの髪の毛を入れた人形をぎゅうって抱きしめて、一人でえっちしちゃってたんでしょ~?』
『ひあっ』
 耳を甘噛みされたニーナは思わず声を上げた。それでニーナの反駁を封じ、ディースは言葉を続る。
『お姉さん感動しちゃったわ~。一晩中、リュウちゃん、リュウちゃんって声が聞こえるんだもの。お姉さんもつられちゃったわ。うふふ』
 伸ばした人差し指を唇に当てて、ディースは淫らな笑みを浮かべる。捕食者の残虐性が、唇から見え隠れする牙に現れていた。
『ちっちが』
 羞恥に顔を赤く染め、涙目になったニーナが精一杯の力を振り絞って口を開いた。
『あらリュウちゃん。やだ聞いちゃってた? ふふふ』
 今気付いたと言わんばかりに大きな動作で体を動かし、リュウに向き直ってディースが言った。
 ニーナが大きく開いた眼に涙を一杯に溜めて、リュウを見た。
 リュウの頬が赤く染まっている事に気付くと、ニーナは羽根の大きな一降りで加速を付けて傍らを走り抜ける。眼からきらめきが空中に舞った。
 少し前屈みになった状態のリュウは呆然とニーナを見送る。
 リュウは気を取り直して抗議の視線をディースに送ったが、にんまりとした笑みを返されて視線を逸らす。ニーナに続き自分まで犠牲にされては事態の収拾がつかなくなる。
『んーんんんっんんう』
 もぐもぐと朝食を咀嚼しながらリンプーが言った。
『んうんうんーんんうんんう?』
 他人事のようにリュウに問いかけてくるリンプーの声を背に、リュウもとぼとぼと食堂を背にする。
『やだあ。リュウちゃんも若いわあ』
 背にかけられたディースの艶やかな甘い声に、びくりと肩がすくむ。リュウは前屈みのまま走り出した。



 そして、ニーナとしばらく口をきいていない。
 共同体にいても避けられてしまうのが悲しくて釣りに出ている。もっとも、ニーナが避けているのはディースもリンプーも一緒だが。
 そしてリュウは、釣りからの帰路に着くといつもこの丘の手前で頭を抱えている。
 ディースとリンプーが絡んでくるから俺を避けざるを得ない訳で、嫌われている訳ではない……と、思いたい……。
 うー、とリュウは野良犬のような声で唸った。
 ニーナは、ためらいがちに視線を伏せるようにしてリュウを避ける。その頬はリュウを捉えたときから桜色に染まっている。
 かわいいよなあ……。
 リュウは頭を抱えたまま一旦現実逃避してにんまりと笑った。
 完璧に嫌われているのではない、という確証をすれ違い様にちらりと向けられる視線から感じていた。。
 お互いにどうやって接したらいいか分からなくなっているのだ。
 が、リュウはニーナのトイレの音を盗み聞きした変態男である。
 ニーナはリュウに不可抗力ではあるがトイレの音を聞かれてしまい、ショックを受けた被害者である。
 自分の圧倒的不利な立場にリュウはまた沈み込んだ。
 脳裏に浮かんだリンプーの脳天気な笑顔に責任転嫁してみるが、もちろん現状打破には全く役に立たない。
 仲間として、時には仲間以上の存在として楽しげに言葉を交わす日々などまた訪れるのだろうか。
 相手を気遣う、ひたすらに優しいニーナの声が脳裏に浮かぶ。
「……リュウちゃん」
 今日の脳裏に浮かんだ声は、やたらとリアルだった。あまり美化されておらず、声には羞恥と非難、それに友愛がない交ぜになっていた。
「……リュウちゃん?」
 更に不安そうな響きが声に加わり、リュウはようやくその声が頭上から降ってきているものだと気が付いた。
 見上げると、少し離れた丘のゆるやかな斜面にニーナが立っていた。うつむいて、ボリュームのある胸の下でもじもじと手指を動かしている。背中の翼は収まりが悪そうに小さく動いていた。
「あう」
 リュウは咄嗟に喉から音を絞り出したが、それは単なる音だった。
 相手の名前も呼べない自分に暗澹たる気分になる。一方的な被害者であるニーナが勇気を出して話しかけてくれたであろうに、返事すら出来ない。
 ごくり、と自分の喉の音がやたら大きく響くのをリュウは聞いた。
 ニーナがこちらに歩み寄ってくるのを見て、慌てて立ち上がる。
 軽い足音が止まり、二人は近くもなく遠くもない距離でお互い立ちつくした。
 ちらり、とニーナがうつむいた顔の視線をリュウに向けた。リュウはどきまぎしながら見つめ返したが、ニーナが視線を外す事はなかった。
 桜色に頬を染めたニーナの顔に、決意が表れた。
 唇が、言葉を紡ごうと開かれる。
 リュウは反射的に機先を制した。
「ごめん!」
「……ごめ……んね?」
 拝み手でぱちくりと眼をしばたたかせるリュウと、腰を軽く折って顔を上げたニーナの視線が交錯した。しばし見つめ合ったあと、どちらからともなく微笑む。
 リュウは脱力してその場に座り込んだ。微笑みは弛緩した笑みになっている。
「なあに、リュウちゃん? どうしたの?」
 くすくすと口元に手を当てて、ニーナが笑った。
「いや、えーと、ニーナが怒っていると思ったからさ……」
 混乱した頭を整理させながら、リュウが言葉を紡ぐ。変態男だと思われていなくて良かった。
「ううん」
 ニーナは小さくかぶりを振った。
「リンプーちゃんが勘違いしていたんだし、わたしの方があんなに騒いじゃって大人げなかったわ。ごめんね」
 ニーナの寛大さに1つ上の年齢差を感じて、リュウは安心したような、情けないような気分になった。ともあれ本当に変態男だと思われていなくて良かった。
「本当はもっと早く謝りたかったんだけど……」
 その先は言わずとも分かった。とにかく内容を選ばず話しかけてニーナに元気になって欲しい脳天気娘と、絡めるだけ絡んで楽しみたい蛇のようなお姉さんが共同体には居るのだ。
 リュウはばっと身を起こして辺りを見渡した。リンプーもディースも辺りには居ないようだ。尾行してきていてもおかしくないので気配を察知しようと神経を研ぎ澄ませるが、本当に居ないようだ。
「あれ? 二人は?」
 不思議に思ってリュウは聞いた。飽きるのが早いリンプーはともかく、ディースだったら確実に尾行してきているはずだ。
「リンプーちゃんは、蝶々追いかけてどこか行っちゃったみたいなんだけど……」
 口を濁すようにニーナは行った。リンプーは時折、猫科の肉食獣が狩りの時に見せるような恐るべき集中力を発揮する。どうでもいいような時に。
「……ディースさんは……」
 不安そうにうつむいて口ごもったニーナは、それを振り切るように勢いよく顔を上げた。と、思うと頬を染めてうつむく。
「……ね、リュウちゃん、一緒に帰ろ」
 桜色の唇が動いて言葉を紡ぎ出した。上目遣いの瞳には懇願が込められていた。
「う、うん」
 子供っぽい答え方をしたのを後悔しながら、リュウはニーナに寄り添うように肩を並べた。
「……べ、別にわたしのおしっこの音聞いたって、リュウちゃんは何でもないよね?」
 舌で唇を湿らせた後、普段通りの声音を装ってニーナが言う。どんな事をディースに吹き込まれたのか、その目は少し怯えていた。
 本当に少しも何でもなかったかというと嘘になってしまう。そしてリュウは正直な少年だった。
「……うーんと、その、俺もおしっこの音ニーナに聞かれたら恥ずかしいと思うし、そんな感じかな?」
 リュウは正直に問いに答えなかった。わざとらしく笑ってみせる。
 状況を想像したのか、困ったように顔を伏せるニーナを見て、リュウはほっと胸をなで下ろした。
「そ、そうよね、やっぱり恥ずかしいものね」
 赤面しつつ真面目に考え込むニーナの独白に、リュウは心の中で詫びた。
「……あ、リュウちゃん、今日はおっきな魚釣ったね」
 慌てて話題を変えるニーナ。
「うん、結構大変だったよ」
 リュウは微笑んで会話に応じる。
 二人の以前のように楽しい時間は、共同体に到着するまで続いた。



「どうしてあんなになっちゃってるんだ……」
 勝手口からしゃがみ込んだ格好で食堂をのぞき込み、リュウが呻くように言った。
「……分からないけど、部屋の窓から乗り出して見てみたら、窓ガラスが思いっきり割れてたわ……」
 同じように、こちらは立ったまま食堂をのぞき込むニーナの声が、リュウの頭上から降ってきた。
 リュウの顔の脇にニーナのすらりとしたラインを描く脚があるが、食堂内に鎮座する問題の為に頭に入ってこなかった。
 食堂の片隅に申し訳程度に設けられた談話コーナー。その布張りのソファの真ん中に、ディースは鎮座していた。
 自慢の蛇体を人間の脚に変化させ、見せ付けるように組んで投げ出している。赤いペディキュアの塗られた足はヒールの高い足首までのサンダルに包まれており、腰から足の先まで艶やかなラインを描き出している。
 服は服なのか下着なのか怪しい、強いて言うなら酒場の踊り子の服のようなものを身につけていた。ブラジャーにショーツ、それにパレオというには前後にしか布のないもののみで、全て布地がやたら小さく、しかも薄くて肉体のラインをくっきりと見せつけている。パレオもショーツを隠すのではなく、扇情的に見せる為にデザインされているようだった。
 布地も、あちらこちらにちりばめられている装飾品も高価なもので、ディースの豊満な肉体も相まって、質素なソファが場違いなものに見える。
 どちらかといえばディースの方が場違いなのだが。
「……勝手に部屋に入っていって修理したら駄目かなあ……」
 腰に工具ベルトを締め、手に窓枠を持ったままうなだれてリュウは言った。窓ガラスがよく割られるので、あらかじめ作ってあった窓枠を取り替えるだけだ。
「……駄目なんじゃないかしら。……原因をどうにかしないと」
 ニーナはリュウの問いに答えていないような、独白するような声音で言った。
 全ての生き物が逃げ出してしまったかのように静まりかえった共同体に、ディースがビールを飲む音だけが響く。
 周りには恐ろしい数の樽と瓶が散乱していた。みんな酒のものだ。
 ビールを飲み干したディースは瓶をそのまま放り投げた。散乱した瓶に合流して音を立てる。樽も、瓶もほとんどが空になったもので、ディースの周囲を埋め尽くしていた。
 新しい瓶を手に取ったディースは、しばし宙を睨んだ。さすがに酔いが回ったのか、少しばかりふらつく瞳は世の中の全てを憎んでおり、肉感的なラインを持つ体からは酒気の臭いと一緒に生きとし生けるもの全てに害を及ぼすエネルギーが放出されているかのようだった。
「……うう……」
 共同体リーダーとしての重責に堪えかねてリュウはうめき声を上げた。胃がきりきりと痛んでうつむく。
 ディースに近づいても殺されないだろうか? それとも相手に殺意がない場合、死なないだろうか? と考えるべきなのか。
「……死んじゃえばいいのに……」
 ぼそりと上から降ってきた感情のない言葉に、リュウは驚いて顔を上げた。
 かすかに見えたニーナの瞳は、猛禽類のそれのようにディースを見据えてぎらぎらと輝いている。
「どうしたのリュウちゃん?」
 ぱっと見下ろしてきたニーナの顔は慈愛に満ちて微笑んでおり、リュウはさっきのは全て勘違いだと考える事にした。
「誰がなんだってえ~」
 姿勢も視線すら変えずにディースの声が響き、リュウはしゃがみ込んだまま小さく跳ねるというちょっとした芸を披露した。
 ニーナのさっきの呟きは、間近のリュウが内容を聞き間違えるほどに小さかったのだが。
 驚いて混乱したリュウをよそに、ニーナはすたすたと軽い足取りでディースの元に向かった。慌ててリュウも追う。窓枠を忘れた事に気付くが、窓枠が頭からぶち当たってくる光景が頭に浮かんで取りには行かない。はめ込まれたガラスが頭に突き刺さり、枠に残ったガラスはギロチンの刃のようだ。それを見て機嫌良く笑うディースが続けて連想された。
 ニーナはぽふ、と軽くクッションの音を立て、ディースのはす向かいに座った。
 リュウも恐る恐るニーナの隣に座る。何故かソファの座り心地が異常に悪い。今すぐ立ち上がって走り出したいほどだ。
「……誰が、なんだって?」
 ディースがずい、と身を乗り出してニーナに言った。酒の臭いがリュウの方まで漂ってくる。リュウは体をずらした。
「ディースさんが、いなくなっちゃえばいいなって」
 かわいらしく小首を傾げ、にっこりと微笑んで言うニーナ。
 リュウは座った姿勢のままで跳ねるという妙技を披露した。



 人は無になれない。
 リュウは結論した。
 無というのは概念であり存在ではないからだ。前回はそれで失敗した。
 それで今回は空気になろうとした。
 すぐ側で展開されはじめた舌戦を意識から閉め出す。
「あらお姫様、あたしがいなくなっちゃったらどうしていいのかしら?」
 言葉の刺を隠そうともしないディースの声音は、楽しんでいるようにも聞こえる。
「こんなにお酒を飲み散らかして、周りに迷惑を掛ける事もないでしょうから」
 口元を隠すように手を当てて微笑み、切れ長の眼に侮蔑の光を浮かべて散乱した瓶や樽に視線を巡らす。
「昼からこんな量のお酒を飲んじゃって……はしたないですよ、ディースさん」
 侮蔑の視線を近くの瓶に落としたまま、ニーナが言った。飛翼族の王女の声音は冷酷な女王を思わせた。
 ふん、と鼻で笑ってディースは瓶のコルクを抜いた。度の強そうな酒を口に含む。
「アルコールはすぐに脂肪になっちゃいますし……」
 挑発的に細められた猛禽の視線がディースを射貫いた。げほげほとむせかえるディースを冷ややかに見下す。
「もうお年がお年ですし、控えた方がいいんじゃないですか?」
 うめき声を上げて口元を手の甲で拭い、ディースはニーナを見据えた。好敵手を見る殺伐とした嬉しそうな視線にも、ニーナは動じない。にんまりと笑ったディースの口元に、尖った牙が光った。
 自己暗示が成功しつつあるのか、二人はリュウの存在を気にも掛けていないようだ。
 さすが空気。
「……ふふん」
 ディースが立ち上がった。曲げた腰に手を当てて妖艶に微笑む。成熟しきった女性の豊満なラインがニーナの視界を圧倒した。
「……この体のどこに、余分な脂肪が付いているって? 年齢? これは成熟した女性って言うのよ、お・ひ・め・さ・ま」
 ニーナが思わず圧倒された瞬間を逃さずに、ディースは身を乗り出してニーナに顔を近づけた。
 ディースの弱点を探そうとして果たせず、ぐ、とニーナは言葉に詰まった。ディースの言う通り体のラインは成熟した女性のもので、その完璧なラインに崩れているような部分はない。
 悔しげなニーナの顔に満足して、ディースは顔を離した。
 立ち上がった状態から見下した視線を向けてくるディースから身を守るように、ニーナは服の裾を正した。
「やあねえ世間知らずのお姫様は。おっぱいとお尻にだけ栄養が行って、頭には回ってないのかしら? そんな痩せた体じゃ本当に色気があるとは言えないわよ?」
 勝利の喜びを声ににじませたディースに見下ろされ、ニーナは悔しさに唇を噛んだ。
 熟れに熟れ、そしてどこも崩れていないという恐ろしく完熟したディースの体のラインを憎らしげに見上げる。
 そして、ある事に気が付く。ニーナはうつむいた。
「……ディースさんは」
 地の底から漏れてきたような声に、ディースは不可思議な視線をニーナに向けた。表情はうつむいていて見えないが、声にはまたふてぶてしさが戻っている。
「いつまで、その体のラインを維持できるんですかね?」
 勝利を確信したその声に、ディースは顔を青くした後、かあっと紅潮させた。
 にっこりと笑っているニーナを睨み付けるが、怒りのあまり声が出ない。
「確かにわたしはまだ成長途中で、肉付きも良くないし、ディースさんのような成熟した女性とは言えませんけど……」
 上目遣いにディースを見るニーナの視線は、かわいらしく睨め付けているような奇妙さがあった。
「わたしが成熟した女性になったとき、ディースさんはどうなんでしょうかね? 今、成熟しているディースさんはこの後は……?」
 ニーナは口元に勝利の笑みを浮かべ、形のいい唇を動かして言葉を紡いだ。
「……ぽとり」
 くわっ、とディースはどう猛な表情に豹変して牙を見せた。
 びくり、とニーナの体が硬直する。
 しかし両者の行動はそれぞれ一瞬だった。
 何事もなかったのようにディースはニーナを半眼で見下ろし、ニーナは上目遣いにディースを見上げている。
 奇妙な静けさが訪れた。
「リュウちゃん」
 ディースの声が静けさを破った。
 リュウはまた失敗を悟った。空気は自分の事を空気だと思ったりしない。
 ぎこちない動きでリュウはディースを見て、その後救いを求めるようにニーナを見た。二人とも半眼で自分を見つめていたので、仕方なく間のテーブルに視線を固定する。
「どっち?」
 今まで聞いた事のないような恐ろしく冷ややかなニーナの声が、響いた。



 ぴん、と恐ろしく張り詰めた空気の中、リュウは口を開いた。二人からの視線を刺すように体に感じ、口を開くのがえらく大変だった。
「どっちも、どっち、かなあ?」
 取り繕うように和やかな雰囲気を無理矢理詰め込まれた言葉に、一層部屋の空気が張り詰めた。内圧で窓ガラスが割れてもおかしくないような気がする。
「えーと、その、個人には色々な趣味嗜好があって、一概に何がいい、とは言えないのではないかと……」
 リュウはテーブルを向いて二人に話しかけているのではなく、テーブルに話しかけていた。二人に話しかける事が恐ろしい。
「リュウちゃん?」
 ぐい、と右手を掴まれてディースに立たされる。その手がディースのたわわな胸に押しつけられた。
 驚くほど柔らかい、弾力を持った感触。薄く小さな布地は感触を伝えるのにほとんど邪魔をしなかった。指がディースの肌の中に埋まりそうな錯覚を覚える。
「わっ」
 混乱と興奮に体に力が入り、思わずディースの胸を握ってしまう。
「あんっ」
 長いまつげを伏せて、小さく身もだえするディース。湿った吐息を吐き出した後、いたずらっぽく微笑んで言う。
「……積極的ね、リュウちゃん……。続きも、する?」
 最後の方の言葉は耳元で熱く囁かれた。
 個人には色々な趣味嗜好があって、一概に何がいい、とは言えないのだが、リュウの野性はディースに傾いた。
 惚けた表情のリュウの手を自分の胸に押しつけたまま、ディースは階段へと向かった。 いつも利用している、みんなの自室が並んでいる単なる階段だが、リュウの脳裏にはオトナヘノカイダン、という単語が浮かんだ。
「だっ、だめっ」
 ニーナの必死の叫びが寮内にに響いた。
「こ、こんなのフェアじゃありませんっ!」
 羞恥に顔を染めながら、ニーナがリュウの左手に取りすがった。
「あら、なあにお姫様?」
 ディースはにんまりと意地悪く笑った。
「どこがどうフェアじゃないの? そもそもルールなんてあったの? リュウちゃんがどっちが好きか、ってそれだけの話でしょう?」
 リュウは別にどっちが好きだとも言っていないが、無視されているようだ。
「……ううう」
 悔しさに眼を滲ませて、ニーナは上目遣いにディースを睨んだ。勝ち誇った顔がニーナの間近にある。
 ニーナは救いを求めるようにリュウに視線を向けた。
 リュウは信じられないようにディースの胸と、それを掴んだままの自分の右手を見つめていた。その表情には至福が含まれているようだ。
 ニーナは決意してすぐさま実行した。お姫様は案外思い切りがいい。
 リュウの左手を自分の胸に押しつける。ぎゅっと眼をつむって、ぐりぐりと押しつけ続けた。
「は、あああ……」
 ニーナの食いしばった口から、苦鳴とも喜悦ともとれない言葉が漏れる。
 新しい感覚にリュウははっと我に返った。自分の左手を見る。
 リュウの左手は、ニーナの胸を押し潰してこね回していた。ニーナは涙目で上目遣いにリュウを見つめ、両足は落ちそうになる腰を内股になりながら必死に支えている。
 ニーナがリュウの手を動かしているのだが、羞恥に赤く染まった顔はリュウを非難しているように見えた。
「えっ」
 リュウの胸に罪悪感と加虐心が芽生えた。服を間に入れても、ニーナの大きな胸の感触が堪能できる事に感嘆する。残念ながらほとんど素肌で、しかもニーナより巨乳のディースには敵わなかったが。
 個人には色々な趣味嗜好があって、一概に何がいい、とは言えないのだが、リュウの理性はニーナに傾いた。
「……なっ!」
 ディースが驚きの声を発した。涙目で睨み付けてくるニーナを睨み返す。ぎりぎりとディースの牙が音を立てて噛み合わされた。
「こうなったら実技で勝負よ!」
 ぐいっ、とリュウの右手首を握って思いっきり引っ張る。
「? ……だ、だめっ!」
 少しの間リュウと一緒に引きずられて歩いた後、言葉の意味に気付いたニーナは慌ててリュウの左手首を引いた。
 しかし体重が軽いのでリュウと一緒に引きずられてしまう。
「ちょっちょっちょっちょっ」
 両脇から引っ張られてどうにか完全に我に返ったリュウが慌てる。
「大丈夫よリュウちゃん! お姉さんが優しくしてあげるから!」
 どちらにも引っ張られないように踏ん張りながら、リュウは思わず頬が緩みそうになるのを堪えた。
「……思うがままにオンナのカラダを貪れる機会なんて、そうないわよぉ?」
 先ほどの大声から一転、声のトーンを落として湿った言葉を吐き出すディース。
 リュウの体がディースの方にずるずると動いた。
「だっ、だめーっ!」
 ニーナの悲鳴が響いた。
「わっ、わたしも、ディースさんと同じ事してあげるからっ!」
 驚いてリュウはニーナを見た。ディースも眼を丸くしてニーナを見つめている。
「そっ、そのうち、だけどっ……」
 顔を真っ赤にしたあとうつむいて、消え入りそうな声で言うニーナ。
 ニーナを見つめたまま、リュウの体がニーナの方に半歩動く。
 はっと気が付き、リュウの手首に力を込めてひっぱり直すディース。
「何よそれ! 口約束? 信用できないわね!」
 吐き捨てるようなディースの声に、まだ赤みの残る顔を上げてニーナが言い返す。
「ディースさんだって口約束じゃないですか!」
 リュウはその場に体を静止させる事で手一杯になっていた。ディースよりもニーナの方が力が弱く、ニーナと二人でディースに体を持って行かれないようになっている。
 体のポーズとして、二人の力が拮抗しているように見えるべく気を付ける。
「あたしがどんな事するかわかるって言うの~? お姫様~?」
「そっそれは! 考えます!」
「考えたって分かるもんじゃないでしょ~? 教えてあげるから今すぐしてあげたら~?」
「そっそそんな事っ」
 言葉に余裕の出てきたディースの方が優勢だな、と捨て鉢な気分でリュウは思った。両方から引っ張られているという不自然な状態のおかげで、前屈みになっているのがばれていないのがありがたい。
 誰かどうにかしてくれ、とリュウは思った。
 リュウは自分にこの事態を収拾する能力がない事をよく知っていた。
 事態がどちらに転んでもちょっといい目を見れそうな気もしていたし。



「リュウちゃんリュウちゃんリュウちゃ~ん!」
 突如ドアからリンプーが飛び込んで来る。
 減速を知らないのか面倒なのかする気がないのか、そのままリンプーはリュウの胸に飛び込んだ。正確に言うとリンプーの頭がリュウの鳩尾にぶち当たった。
「ぐおっ」
「きゃっ」
 リュウが後ろに吹き飛ばされ、釣られてニーナも転ぶ。ディースは素早く手を離していた。
 事態は左右どちらにも転ばなかった。残念ながら。
「リュウちゃん見て見て! リンプーいいもの拾っちゃった!」
 リュウを押し倒した格好のまま、リンプーは喜びを押さえきれない表情で言った。手に持った何かを自慢げにリュウの鼻先に突きつける。
 つやつやと光沢を放つ、緑色の大きな鱗だった。木の葉ぐらいの大きさからして、持ち主の胴回りの大きさが想像できた。人程の胴回りはあるのではないだろうか。
 リンプーは獲物を主人に見せびらかす猫さながらに、リュウに自慢げな視線を注いでいる。立った尻尾がゆらゆらと揺れていた。
 苦痛から回復しながら、リュウはまたリンプーが変なもの拾ってきたなあ、とぼんやり思った。しかし状況を思いがけない形で打破してくれたのでありがたい。残念な気もするが。
 リュウは鱗に見覚えがある気がして、じっとそれを見つめた。しばらくして、さあっと顔から血の気が引く。
「あのねー、寮の裏にこれだけ落ちてたの。不思議でしょ!」
 ふふん、と自慢げな鼻息がリュウに吹きかかった。リュウの頭の中で様々な情報が統括されていく。ディースの不機嫌な理由、自慢の蛇体を人の脚に変化させている理由。
 答えに思い当たって、リュウは顔を土気色にしながらニーナを見た。ニーナは尻餅をついたままの格好で、こくりと頷いた。ニーナの顔は怖いくらい無表情だ。ちらりと走ったニーナの視線を追って、リュウは思わず神に祈った。
 能面のように全く表情の読み取れない表情のディースが、怒気のようなものを破裂寸前に膨らませていた。全く表情の読み取れない顔と破裂寸前の怒気がアンバランスで恐ろしい。
「あのねーこの鱗ねー」
 リュウとニーナがばっ、と素早くリンプーに視線を注いだ。止めろ! 駄目! と視線にメッセージを込めるが、目前の戦利品に集中しているリンプーには届かなかったようだ。自慢げに言葉を続ける。
「すごいきらきらしててねー、きれいでしょー?」
 寮を震わせんばかりだった怒気がしぼんだ。恐ろしくてディースの方を向けないので表情などは分からない。
「うんすっごいきれい」
 リュウの判断は迅速だった。
「リンプーちゃんそんなきれいな鱗拾ってきて羨ましいなー」
 ニーナの判断は迅速かつ的確だった。
 怒気が嘘のようにするするとしぼんでいく。
「にひー」
 戦利品を見せびらかすのに満足したのか、しまりのない笑みを浮かべるとリンプーは立ち上がった。鱗を掲げて、光の加減で変わるきらめきを楽しんでいる。
 リュウは胸をなで下ろしそうになり、はっと気が付いた。
 リンプーは飽きるのが早い。
「そうだリンプー、それ首輪の鈴のところに付けてやるよ。きれいなアクセサリーになるぞ」
 ずい、と進み出て強い口調でリュウは言った。ここで失敗する訳にはいかない。
「いいなー。リンプーちゃん、かわいいアクセサリー付けて貰えて」
 リュウの後ろからニーナが間髪入れずに追い打ちをかけた。
「ええ~。リンプー照れちゃうな~」
 しまりのない笑みを復活させて、リンプーは鱗と首輪をリュウに渡した。
 今までにない作業スピードと丁寧さを両立させて、リュウはリンプーの首輪の鈴の後ろに鱗を付けた。自分が工具ベルトを付けていた事を神に感謝する。
「ほら出来た。きれいだろ?」
 有無を言わせぬ強さで言うと、リンプーに首輪を渡す。
「おお~」
 感嘆して首輪をためつすがめつした後、リンプーは首輪をはめた。
「どう?」
 自慢げにあごを反らせてみせる。
「きれいな鱗がきれいなアクセサリーになっていて似合うぞリンプー」
 リュウの発言は間髪入らない素早いものだった。
「リンプーちゃん、きれいな鱗が素敵なアクセサリーになっていて羨ましいな」
 ニーナの発言は心からそう思っているような、演技力の素晴らしいものだった。
 別に二人とも鱗がきれいではないと思っている訳ではないが、今はそれを論じている場合でもない。
「にひひ」
 ご満悦の笑みを浮かべているリンプーの肩に、よく手入れの行き届いた長い爪の手が置かれた。
「ほえ」
 不思議そうに振り向くリンプー。
「あっ、ディースだ」
 恐ろしい事に今まで気が付いていなかったらしい。
 ディースは今までの事がなかったかのように、和やかな笑みを浮かべている。
「その鱗、気に入った?」
「うん!」
 優しく言ったディースに、リンプーは力一杯答える。
「そっか、じゃあお外でちょっとご飯でも食べよっか」
 にこにこと機嫌良く微笑むディースを見て、リュウとニーナは脱力してへたり込みそうだった。
「うん!」
 また元気いっぱいに答えるリンプーを伴って、ディースは寮から出て行こうとする。
 脅威が去った事に、がっくりと肩を落とすリュウとニーナ。
「あれ?」
 不思議そうに上を向いて言ったリンプーの言葉に、両名はのろのろと顔を上げた。
「この鱗って、ディースのじゃないの?」
「……ばっ」
 思わず怒声がリュウの喉から飛び出そうになる。飛び出なかったのは単にディースが怖かったからだ。鱗が本当はきれいだと思っていない、という風に意味を取られたら恐ろしい事になる。
「うん、そうよ」
 ディースはこともなげに答えた。リュウとニーナの眼が驚愕に見開かれる。
「気に入ってくれたんだから、あげるわ」
 優しげな口調のまま、ディースは言った。にっこりとリンプーに微笑む。長い指がリンプーの首輪に付けられた鱗を揺らした。その輝きはディースの体にあったときと変わらない。
「……いいの?」
 ディースの表情からほんの少しの悲しさを敏感に読み取り、リンプーはおずおずと聞いた。
 リンプーを心配させまいとする優しい微笑みがディースの顔に浮かぶ。
「いいのよ、また生えてくるんだから」
 慈母そのものの微笑みを見たリュウとニーナは、その場に力なく崩れ落ちた。



 おしまい



 おまけ

 力尽きて座り込むリュウの肩に、ニーナの手が優しく置かれた。リュウは涙の溜まった眼でニーナを見上げる。
 何もかも許すような優しげな微笑みは、やっぱりニーナの方が似合っている。
「……リュウちゃん」
 傷付いた言葉を癒す、柔らかい、優しげな言葉。
「ディースさんの部屋の窓、帰ってくる前に直しておかないと」



 ほんとにおしまい
  1. 2009/02/05(木) 08:51:10|
  2. ブレス オブ ファイアII
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